大和は国のまほろばたたなづく、、、ヤマトタケルも安倍さんも千年前から人のために死ねた日本人。

 もう泣きながら読みました。「【慟哭の特別寄稿30枚】光に満ちた悲劇 安倍晋三とヤマトタケル|櫻井よしこ【2023年3月号】」。うーん、せやけど実は、安倍さんの暗殺で即座に(7月8日)ご自身のメルマガでコメントを書かれて「ヤマトタケル」を想起させてくれはったのは、宮崎正弘さんです。

 私はすぐにそのことを書きました(暗殺された安倍さんをまだ貶め続ける日本のマスゴミ。こいつらも犯人やな。まだまだ戦わなあかん。)。櫻井さんは宮崎さんのメルマガは読んではらへんのかな?そしたら案の定、メルマガの(読者の声)で指摘する人がいて、宮崎さんは1/26に再掲してくれてはりました(「宮崎正弘の国際情勢解題」)。こっちでも今度は全文、コピペ再掲させていただきます。

(宮崎正弘のコメント)よく思い出していただきました。昨年7月9日付(8日発行)通巻第7399号 <臨時増刊号>の見出しは「志半ば、兇弾に仆れても、その精神は受け継がれる ーー神武肇国の大和へ不屈の志と魂は還った」でした。
 本文を以下に再掲載します。

(引用開始)「熊襲と出雲を退治して凱旋したヤマトタケルに景行天皇は続いて東征を命じた。ヤマトタケルは草薙剣で駿河国造の襲撃を切り抜け、常陸国の新治まで行軍した帰路、甲斐の酒折で歌を詠んだ。尾張でおごりが出て草薙剣をおき、伊吹の賊を退治にゆくが油断して重傷を負い、伊勢の能褒野でみまかった。ヤマトタケルは白鳥となって古市をめざした。絶命の前に遺したとされる歌は

 「大和はくにのまほろば たたなづく 青垣やまごもれる 大和しうるわし」

 現代日本の強き指導者は奈良の北辺で撃たれ、樫原に没した。ここは神武肇国の土地であり、英雄の陵(みささぎ)が造成されている。わがくにの肇国の魂が呼んだのだ。
 昭和四十五年十一月二十五日、夜半に関西は雨に見舞われた。保田譽重郎は、文豪の諫死を憂い、その夜雨を「神々の涙」と比喩した』(引用終わり)。

 最後の文節の『文豪』は言うまでもなく三島由紀夫、安倍首相は三島の辞世を諳んじていました。

 櫻井よしこさんの記事は長文で、めっちゃ勉強になります。安倍さんが本のタイトルにもした「美しい国」日本とは?という問いから始め、櫻井さんは『古事記』にたどり着いた、と。その中の多くの話の中の「山場」の一つが「倭建命(やまとたけるのみこと)」の物語です。

 お父さんの景行天皇は、九州での熊襲征伐を成し遂げて戻ったばかりの倭建命に、すぐさま東方征伐を命じたんですね。まつろわぬ(従わない)神々を「言向け和平せ(ことむけやはせ)(説得して従わせよ」と。天皇は千年以上も前から「平和主義」やったんや、という話ですね。

 さらに、櫻井さんは、倭建命が妻の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)と共に東征に出て、浦賀水道(房総半島沖)で暴風雨に遭った時に、弟橘比売命自らが人身御供となって入水したことで、海が鎮まり、航海を続けられた話も取り上げてはります。

 その時の辞世の句まであるんですね。渡部昇一さんがこれを、日本初の辞世の句が女性によって詠まれ、しかも愛の歌であるとして、激賞してはったとか。もう話が止まりませんね。そして歌と言えば万葉集、その中には防人の歌が何十首と収録されているのはみんな知っていますね。

――故郷の父よ、母よ、はらからよ、村の人々よ! やがて私は勇しく出てゆく、見てくれる人はなくとも

 今でいう「徴兵」された兵士が、出航する時に詠んだ歌の一部の意訳です。朝廷は、白村江の戦いに敗れたことで、国として国防を強化して行くことになった、その90年後に収録された歌なんやとか。既にして、兵士にまで国家観がちゃんとあったということやんか。ひえーー。

 ヤマトタケルノミコトは、お父ちゃんの無理難題にも必死で応え、ついに目的を果たしてやっと美しい大和に戻るすぐ手前のところで亡くなりはったんですね。あ、すみません、私のこんな省略だらけの雑な紹介やのうて、『Hanada』を買うて読んでくださいね。泣けます。

 古事記を読むと、日本人はみな、人のため、愛する人のため、国のためにも、自分を犠牲にして死ぬことができてたんや、というのがようわかる、というわけですね。せやけどその真ん中にいてはる天皇は、国民のことは「おおみたから」と言うて24時間、365日、「民安らかなれ」と祈ってくれてはるわけですね。これが「美しい国」ということでしょうか。

 話が終わらへんわ。安倍さんは、命を狙われてることはわかってはったんかも知れませんね。せやけどその命を懸けて国の為に戦うてくれてはったというわけですね。やっぱり前にも書きましたが、安倍晋三神社ができて欲しいな。できれば奈良に、、、。ちょっと字が違いますが、櫻井さんが引用していた「大和は国のまほろば」の歌を、最後に転記しておきましょう。

倭(やまと)は 國のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山陰(やまごも)れる 倭(やまと)しうるはし

 櫻井さんは「この歌には解説は要らない。声に出して読むのがよい」と言うてはります。
 美しい日本、みんなでしっかり守りましょう。

【文中リンク先URL】
https://naniwakawaraban.jp/2022/07/09/%e6%9a%97%e6%ae%ba%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e5%ae%89%e5%80%8d%e3%81%95%e3%82%93%e3%82%92%e3%81%be%e3%81%a0%e8%b2%b6%e3%82%81%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%82%8b%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e3%83%9e%e3%82%b9/
https://www.mag2.com/m/0001689840


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【ナニワの激オコおばちゃん】

コメント

  1. テルテル より:

    倭は國のまほろば…激おこオバさんの文章読んだだけで、涙が止まりません。日本の精神、その文化はそれ自体が地球文明の至宝だと思います。断じて私たちの世代で断絶させる訳にはいきません。

  2. mibu より:

    櫻井さんが昭和天皇と岸信介について言及した動画があります。
    【虎ノ門ニュース】2019/8/13(火)  月刊Hanada2019年6月号
    https://www.youtube.com/watch?v=2fwnMnpPtC8&t=39s

  3. mibu より:

    岸信介は統一教会、アメリカの保守派と結びついて日本の独立を目指しました。
    ・・・孫崎享『戦後史の正体』

    朝鮮戦争への不満から始まった保守派の反撃、マッカーシー旋風。
    日本を陥れた勢力への攻撃です。
    「アメリカの青年を犠牲にする戦争には反対」今のトランプにつながる勢力。
    統一教会系ワシントンタイムスは今でもアメリカで戦っている。

  4. sana より:

    こちら『日本書紀』より
    日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、第12代景行天皇の双子の息子の弟のほうで、小碓尊(オウスノミコト)ともいう。日本武尊は幼いときから雄々しい性格で、壮年になると容貌は溢れんばかりの逞しさであった。身丈は1丈もあり、力は鼎(かなえ)を持ち上げるほどだった。このあたりは「項羽本義」を意識した記述。

    景行天皇自らお出ましになりいったんは討伐した熊襲が再び叛いた。そこでまだ16歳の年端もゆかぬ日本武尊が熊襲征伐に赴く。

    このとき謀計により首尾よく熊襲タケルを討ちとるが、このときから熊襲タケルの遺言により日本武尊(ヤマトタケル)を名のる。それまでは、日本童男(やまとおぐな)という名だった。

    しばらくすると今度は東北の蝦夷(えみし)が反乱を起こした。再び日本武尊が平定に赴くことになった。出発に際し、日本武尊は叔母である倭媛命(ヤマトヒメノミコト)のいる伊勢神宮に立ち寄る。倭媛命は、日本武尊の勝利と無事の帰還を祈願して天叢雲剣を日本武尊に授けた。

    途中、駿河に立ち寄ったとき、そこを治める部族の酋長にたばかられ、草原におびき出され火攻めにされた。そのときに叔母の倭媛命からもらった天叢雲剣で草をなぎはらい危地を脱す。このことから天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を草薙剣(クサナギノツルギ)というようになった。
    この部分は、『日本書紀』本文ではなく、異説による。

    さて、無事に蝦夷(えみし)を平定した日本武尊は、尾張に帰り尾張氏(おわりのうじ)の娘の宮簀媛(みやすひめ)を娶ってこの地に長く留まった。

    日本武尊は、伊吹山に悪い神がいると聞いて、その荒ぶる神を退治しようとでかけた。このときなぜだか草薙劔は宮簀媛のもとに置いたまま、空手ででかける。そして荒ぶる神に遭遇したが、日本武尊はそれが捜している相手だとは知らずに、荒ぶる神の使いだろうと思い無視して跨いで行ってしまう。バカにされたと思った山の神は怒って雲を呼び霧をたちこめさせた。その瘴気にあたって日本武尊は病気になりふらふらさまよう。途中、泉を見つけ、その水を飲んだら覚醒した。ようようまた尾張に帰ったのが、なぜだか妻の待つ家には帰らず今度は伊勢に向かう。途中、その昔松の木の根元に忘れた太刀がそのままあるのを見つけて歌を詠む。

    比苔菟麻菟阿波例(ひとつ松あわれ)  比等菟麻菟(ひとつ松)
    比苔珥阿利勢麼(人にありせば)  岐農岐勢摩之(きぬ着せましを)
    多知波開摩之(太刀佩けましを)

    ★この時、日本武尊はなぜ剣を置いて出かけたのか。
    万一、大切な剣を荒ぶる神にとられるようなことになったらいけないと思って ???或いは、自分にもしものことがあったときの妻に残す形見として ???
    この点については、ちょっとわからないですね。★

    ★伊吹山をさまよって、山の神の毒気にあたって病気になり尾張に戻った。せっかく尾張に戻ったのに、妻である宮簀媛(みやすひめ)の家には帰らず、伊勢に直行しているのはなぜでしょうか。これもよくわかりません。★

    ★草薙劔は宮簀媛(みやすひめ)のもとに置かれていたが、このすぐあとに日本武尊は能褒野(のぼの)というところで亡くなる。亡くなった日本武尊は白鳥と化しました。これは「ハクチョウ」ではなく「シラトリ」即ち「白い鳥」であるといわれている。
    ★宮簀媛(みやすひめ)は、熱田神宮を建てそこに草薙劔をおさめ祀ります。★
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ★天智天皇七年(668年)のこと。
    草薙劔が盗難に逢うという一大事件がもちあがります。犯人は新羅の王子なのですが、いきさつについては熱田神宮「オホホ祭り」、あるいは「酔笑人(えようど)神事」で検索してみてください。