
宮崎正弘さんの今日(6/7)のメルマガ(通巻第9317号)で、面白い話を読みました。書評で早坂隆『教科書が教えない戦争の話~日本人として知っておくべき大切な歴史~』(ワニプラス)を取り上げてはったのですが、その中に舩坂弘さんという人が登場します。
昭和十九年(1944)9月15日、アメリカ軍がパラオ諸島のペリリュー島への上陸作戦を開始し、猛烈な艦砲射撃で制圧し、次いでアンガウルへも急襲に向かった、と。このアンガウルの戦いでこの舩坂さんは九死に一生を得て生還し、戦後、渋谷に大盛堂書店を開店した、という話です。
そしてこの舩坂さんの息子(舩坂良雄)さんが今も?大盛堂書店を継いでいて、雑誌『President Online』でのインタビューに答えてはりました、と。お父さん(舩坂弘)は戦後、体験談を本(『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記』)にして出版しようとしたときに、たまたま剣道と居合道の道場で一緒だった三島由紀夫に頼んだら、序文まで書いてくれた、という話です。
前置きが異様に長くなりましたが、私が声を上げたのはこの部分です。
【(舩坂弘)氏は、水も食もない戦場で、左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二ヶ所、頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲管銃創、さらに左頸部盲管銃創といふ致命傷を受け、一旦あきらかに死亡したのち、三日目に米軍野戦病院で蘇り……】
ひえーー、ようそんな状態で生き残れたな、と思いますね。そして『President Online』の記事(息子、舩坂良雄さんへのインタビュー)は続きます。
「父・弘は、序文のお礼に『関孫六』という名刀を三島先生に贈呈しました」(舩坂良雄さん)これが1966年ころだ。その数年後、三島由紀夫は憲法改正、第9条破棄のために自衛隊に決起することを訴え、1970年11月25日に割腹自決をした。享年45歳。その時の介錯人である森田必勝が、三島の首を落とすために使ったのが、舩坂弘が贈呈した関孫六だった。世にいう「三島事件」である。
そして、宮崎さんのメルマガで宮崎さん(評者)が最後に書いてはります。
評者は二回ほど船坂の自宅に伺ったことがあるが、床の間には数振りの名刀が飾られていたので見せて貰った。武器を手入れしながら船坂の風貌はサムライの風情があった。
ああーっ、そうか、これが現代にも生きているサムライやったんか、という思いで私はこの顛末を読んだのでした。話はいろいろ飛んでしまいそうですが、いずれにしても、こんな「サムライ」がホンマにいたからこそ、日本は滅びずに済んだんやな、と思えます。
戦後間もないころは、まだまだ今よりマシやったんですね。今の私ら日本国民は反省せなあきませんね。で、話が飛びついでに私が上で気になったのは、この舩坂さんの撃たれた時の状態です。「銃創」だけで言えば「左上膊部貫通銃創二ヶ所」、「左腹部盲管銃創」、「左頸部盲管銃創」、、、。
そうです、安倍さんの「銃創」を思い出してしまいました。たぶんこの舩坂さんの記録は、アメリカ軍の診断やとは思いますが、80年前でさえ、敵軍の将兵の傷をしっかり記録してたわけですね。それに引き換え、何や、日本の奈良県警は!一国の元首相の「銃創」さえ、テキトーにゴマかして、しかも非公表ですからね。もうサムライも何もあったもんやないですね。
別に怒らんでもええ話の時にふと怒りが思い出されてしまいます。自分自身を含めて、何もかもが戦後、無責任になって、ただのお人好しの腑抜けの日本人だらけになってしもてる、ということやんか、と悲しくなりますね。
さてそんな暗い話だけでなく、明るい話題をと考えて、もう一つ話がありましたが、長くなるのでまたにします。Xで知った話で、実は日本だけが世界のエネルギー危機の中で、急速に、着実に成果を上げている、という話です。茂木くんの連休中のアフリカ訪問、そして先般のエジプトの外務大臣の訪日の話です。
あ、ネットではもう、高市内閣のことを「シゴデキ(仕事出来る)」内閣、と言うてますね。そんなええ話は、日本のアホマスゴミはしませんね。ホンマにあいつら、終わってるわ。この話はまた。
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