奉祝 紀元節 皇紀2682年
当たり前とはいえ一応、今日は何の日かを多くのメディアでは、それなりに触れていますが、あ、朝日や毎日は知りませんが(笑)、いくら今の教育で、古事記、日本書紀、神武天皇を無視しようとしても、普通に子供や若者がネットで調べたら、すぐにわかる話ですね。
そしてもう少し踏み込んで調べたら、建国記念「の」日なんや、「記念日」とちゃうんや、ということにも気付きますね。さらに調べたら、戦後復活した今日の「建国記念の日」の法律は、今のアホな立憲民主党の前身というてもええ社会党が、執拗に抵抗して「の」を入れさせた、とか。今も昔もサヨクはアホですね。
あ、せやけどかつての社会党は、今よりもっと力を持ってたわけやから、舐めたらあかんな。今までこんなアホサヨクと地道に戦うて来てくれた、多くの人がいてはったということですね。それにしても、大きな流れというものはあるような気がします。
さて、GHQがその存在を消したかった神武天皇、最近は科学的根拠に基づいて、その実在がどんどん証明されて来てるようです。私が前に読んだ長浜浩明さんの『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』のことについては「神武天皇は実在したし、卑弥呼もおったで。事実に即して建国の歴史を取り戻さなあかん。」で書きました。
つい最近、その改題、補筆版として『日本の誕生 科学が明かす日本人と皇室のルーツ』が発売されているようです。長浜さんは歴史学者でも何でもなく、東京工業大学建築学科を出て日建設計に就職しはった技術者やったんですね。大阪の地層を科学的に解析したら、昔の大阪平野のことがわかり、ついには「神武東征」は事実やったと突き止めた、という話です。
大阪出身の私にとって嬉しいのは、「浪速」の地名はこの時の話なんですね。生駒のふもとに上陸するつもりが、潮が速くて船を動かすのに難儀したという話ですが、昔の大阪はこうなっていたという話ですね。ここは経営科学出版のプロモーション画像をお借りすることにしましょう。
今も残る上町台地が「河内潟」を作っていて、潮の加減でその入口のところで波が速くなることをもって「浪速」(なみはや、とか、なにわ、難波)という地名が付いたわけですね。その後、北端のところがくっついて「河内潟」は「河内湖」となり、やがて埋まって大阪平野となるわけですね。
こういう共産党が好きそうな「科学的」な事実さえも、アホのサヨクの学者は認めることもなく、「中国」の書物(魏志倭人伝)のええかげんな記述にこだわって、意味のない論争を延々と続けてるわけですね。
ちなみに、卑弥呼も邪馬台国も、ただの伝聞を書き留めただけの話、今に至るも証拠は何もありません。「卑弥呼神社」すらありません。そらそうや、「卑弥呼」って「卑しい巫女」の意味、「邪馬台国」って「邪魔な国」の意味やんか。そんな汚い言葉で好き勝手にシナ人が書いた歴史を有難がって検証しようとしてる人って、やっぱりアホや。
とは言え、その魏志倭人伝の記述さえも、長浜さんにかかれば、きちんと説明がつくんやそうです。これは前の私の記事でも書きましたので、そのまま再録させてもらいます。
そして記紀を否定されることの反動として、卑弥呼、邪馬台国の記述がある魏志倭人伝を、「インチキ」と決めつけることも戒めてくれてはります。記紀をしっかり読み込むのと同じ姿勢で、魏志倭人伝もしっかり読み込むと、邪馬台国は長浜さんの説明では北部九州になります。「水行」、「陸行」の意味を深く理解した上で、素直にプロットしていくと、そうなるんやそうです。
戦後の学者は都合の悪いことには触れずに、結論ありきで論じてるからいつまでたっても邪馬台国畿内説みたいな俗論が繰り返し、何回も出て来るわけです。それやとホンマに辻褄が合わへんのです。邪馬台国が北部九州やったとすると、顔や体にイレズミをしていたという「鯨面文身」も、それが後の大和朝廷の人たちの祖先ではなかったことも、すべてきれいに説明がつきます。
長浜さんはこの姿勢で、保守系の人たちの日本古代史についての記述にも切り込んで行きはります。その中に、渡部昇一さんと、田中英道さん、岡田英弘さんもありました。結構ショックでしたが、たしかに、間違うてはるなあ、と思う部分がありました。主に記紀に書かれた天皇、皇室についての大間違いです。ちょっと長くなりますので。またにします。
一言で言うと、上のお三方は、どうも「記紀」を全部読まずに書いてはるようです。間違いはきちんと指摘せなあきませんね。何もお三方を全否定してるわけやないですよ、皇室が始まる頃の理解に間違いがありますよ、ということですね。何事も、きちんとせなあかん、それが日本人やんか。私ら日本人の建国の歴史を、きちんと取り戻しましょう。
あはは、「記紀に書かれた天皇、皇室についての大間違いです。ちょっと長くなりますので。またにします。」なんて書いておいて、まだ書いてへんかったわ(笑)。しかも、中味を忘れてしもたわ。改題、補筆版の『日本の誕生 科学が明かす日本人と皇室のルーツ』をまた買うて読み直すことにしましょう。
あ、今日の日で一番肝心なことを書いてませんでしたね。これも私の上の記事に書きましたが、
神武天皇のご即位は紀元前70年、天皇27歳のとき
でした。あれ、皇紀2682年と合わへん?ですか。それも今ではもはや常識になっていますが、
この頃の年の数え方というのは、春の耕作と秋の収穫で数える、つまり今の年代の倍の数字になってしまう時期があった
ということですね。いずれにしても、ざっと二千年以上もの証拠付きの歴史を持ってる民族って、世界中で日本だけやんか。これってもう、人類の奇跡やで。私ら日本人はもっともっと、自分の国の歴史に誇りを持ち、ご先祖様には感謝の気持ちを持たんとあかんな。
【文中リンク先URL】
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コメント
ソロです、起源節お祝い申し上げます。
>>記紀重視の科学的な長浜説
この古代日本史の混乱の原因は1300年前の記紀編纂時にもあったモノやと認識しています。
宮内庁資料には、紀元前660年の開闢で、二代スメラミコトから9代開化帝迄九州の肥(くま)曽於族連合軍との半島利権を巡る闘いが始まり、重臣の一人久米氏を九州に帰して515年に亘って九州平定した「=倭国大乱」で、是らを従来「ん欠史八代」と呼び大和朝廷の空白期間にされてきました。
この混乱の起こりは、蘇我入鹿が大極殿で中大兄皇子と中臣鎌足に首を刎ねられた「乙巳の変」で、最早、是迄と悟った父親の蝦夷が帰宅して家に火を放って自害したが、その火事で日本の国に関する文献を保管していた書庫も全焼してしもた。
この時点で焼失したのは、正史だけやなくて正史を編集するのに、国中から集めた50種類以上の違う文字で書かれた文献や編集過程で分かった事の証拠資料も入ってたワケで、放火は蝦夷の確信的な復讐でしょう。
是を天武帝が復活させ様としたが文献は簡単には集まらず、帝が崩御されたこともあって、沙汰止みになっていたが、稗田阿礼と言う天才少女を探し出して来た太安万侶がリーダーとなって、少女の記憶を手係りに書いたのが古事記で、その8年後720年に出来たのが日本書紀です。
歴史学者の論争はGHQの「日本人改造計画」に沿ったものだから、岡田さん達のグループは、その東大の歴史学会の説に異論を論らっている部分があり、必ずしも冷静ではないw、だから、市井の理系の歴史ファンの長浜さんが書いた、どちらにも与しない記紀の読み込みから得た説は貴重だと思いますね。
大体、魏志倭人伝自体が日本の為に編纂されたものでは無いので、しり
資料としては2級以下でしょう、然し古事記は元が少女の記憶ですから、帝の命令ですから、逆に都度検証した筈と考えるのが日本人ですよね。 だから、思ったよりも精度は高いでしょう。
日本書紀は8年の間に全国「=東北・北海道除く」から集まった し
資料を元に古事記ではカバー出来なかった部分の補正、追付を行ったものと認識しています。
こんな表現の仕方は不適当なのかも知れませんが、代々受け継がれて来た正統な血統であらせられる天皇陛下に備わっておられる神通力と言えば良いのかパワーって物凄いんですよね。御譲位で即位された日は朝から激しく雨が降りしきっていたのに今上陛下が即位を国の内外に宣言された正殿の間に入られる時間になると突然雨が上がり始め空は真っ青で太陽が天空に現れたのを見た時は天照大神が姿を現されたのだと慄きましたもの。自衛隊が祝砲を撃ち始めた時にはまだ雨が降っていたのにです。
儀式の時間は8〜9分だったようですが後でネットで見た皇居全体を跨いで地上に架かった虹を見て日本には神が御座す(おわす)のだと心底思いましたね。あんなに晴れ渡っていたのに、御退出された後からまた雨に戻って行ったのです。
権力は人が得ようとして得たもの。権威は人が得ようとして得られるものではない、畏れ多いと言うのは、そういうことではないでしょうか。天照大神(太陽神)の神官として姿を現された神武天皇の血統でなければ、あんな不思議な自然現象は起こり得なかった事と私なりに思っています。私達に出来る事は、皇室を断絶させようとする邪悪な謀を為そうとする連中を糾弾し排斥することです。
皇室弥栄、天皇陛下(ノ゚0゚)ノ~万歳