

私が、と言うよりもう、みんなが言うてる通りになっていますね、コメ問題。朝昼晩、テレビでは進次郎くんを映して、報道しています。日本の問題は、コメ問題だけとちゃうで。しかも備蓄米を出したところで、すぐ2000円台になるわけでもありません。
そこまで報道するんなら、これを機に、コメ農家の時給10円、コメ自給率の激減、減反政策の破綻、などの問題を一気に解決してくれたら瓢箪から駒ですが、まあ今のアホバカ石破政権と、そんなアホバカでも持ち上げるアホバカキチガイマスゴミでは、何も動かへんことでしょう。

前回書いたように、小泉登場の目的はズバリ、次期総裁ですからね。シナリオは財務省が書いている、と。お粗末ですね。バレていますね。せやけど、一般国民は、毎日顔を見せられると、その人に親近感を持つようになるんですよ。ホンマに国民をバカにしていますね、財務省。
ふふふ。でも次回の総裁選は、もしフルスペックやったら「自民党員」が投票するんですよ。進次郎のことなんか、とうにみんなわかってますからね。とは言え、財務省と岸田、森山は、ひたすら「高市潰し」だけを考えていますから、この先、何が起こるかわかりません。高市陣営は、足をすくわれんように、慎重に行動してほしいと思いますね。
そして堂々と総裁選を戦ってほしいものですが、マスゴミさえ取り込んでる財務省ですから、これもどないなることやら。高市さんがめでたく総裁になれたとしても、どんでもないイジワルやらサボタージュやら、「ワナ」やらを仕掛けて来ることでしょう。トランプさんが「ワシントンの泥沼」と言うた、米民主党を支持するドス黒い汚れた官僚と同じような腐り切った官僚が、財務省にもおるんかも知れません。あーコワ。先が思いやられますね。
さてまたもや、えらい前置きが長くなりました。少し前になりましたが、5/22の「宮崎正弘の国際情勢解題」で、宮崎さんがご自分の『月刊正論』6月号への寄稿を紹介してはりました(「失われた80年…日本はいつ独立回復するのか」)。記事は、
「失われた三十年」とは誰が言い出したのか。江藤淳は「第二の敗戦」と表現した。
と始まります。少しだけ振り返って、
いまでは「失われた三十年」が常套句である。主に経済的停滞を視野に入れてGDPの伸び悩み、技術開発力の停滞、賃金上昇の低さから判断した分析だが、ちょっと待った。失われたのは30年だけだろうか。
戦後80年は、日本にとって「失われた八十年」ではなかったか。
と問いかけてはります。そして、これは80年では終わらんで、とも予想してはります。
後世の歴史家は、きっと次のように書くことになるだろう。
「日本は1945年8月15日から、主権と精神を失い、歴史のなかで、日本はおよそ一世紀にわたって空白だった」と。
そしてここから一気に宮崎さんらしく、縄文からの振り返りが始まります。
まず古代では縄文時代から弥生への転換期に、それまで日本にはなかった環濠集落が造成されるようになった。これは世界史でも独自の文明だった縄文の伝統が壊されたのである。
つまり、「弥生時代に、渡来人がやってきて日本に戦争を教え込んだのである」ということですね。そして「平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によれば1182の姓氏のうち中国・朝鮮系の「姓氏?」が326」と。何と27%やんか。そして
三世紀後半から六世紀にかけて各地に造成された古墳は仏教伝来とともに廃れた。寺院築造がブームとなった。これは歴史上の大事件。「消滅した三百年の歴史」である。
前方後円墳など日本独自の文化・文明が異教の〝乱入〟で消えたのだ。
そして
次なる日本喪失は663年、唐・新羅連合軍に白村江の海戦に負けたのが契機。国内防衛体制強化を急ぎ(西日本22カ所に城塞)、自主防衛体制を構築する一方で、遷都した近江京の大友皇子の取り巻きは百済の亡命者ばかり、新羅との戦争準備をしていた。
大海人皇子(天武天皇)が立ち上がった「壬申の乱」によって、日本は外国の干渉を排除したが、しかしそのあとも仏教政治は根を張って、皇室の仏教信仰がつづいた。平安時代の藤原仲麻呂の専制時代には位階から役所の名称まで唐風とされた。「恵美押勝(仲麻呂)の乱」が終熄し、ようやく唐の猿まねが是正された。しかし、770年の道鏡左遷まで、およそ107年間は日本らしさがない時代だった。
と、長い間、日本らしさが失われていた、と。そしてようやく平安遷都を経て、菅原道真の遣唐使廃止(894年)により、「国風文化」が甦ることになった、と。「平安時代には、古今集、源氏物語、更級日記など日本独特の文化が花開いた。日本文学はこのときに真昼を経験した。」
次の日本らしさの喪失は1543年の種子島への鉄砲伝来、ザビエル来日(1549年)以後の伴天連の猖獗である。異教の教えは日本古来の神道、仏教と衝突した。信長の伴天連保護と奨励により、1633年の鎖国までのおよそ90年間は「伴天連の世紀」(渡辺京二)となった。
そして江戸時代は鎖国によって日本らしさが花開いたことは、あえて書いてはりませんね。その後は一気に「明治時代は『西側信仰』の時代だった」となって、今に至る、ということですね。宮崎さんはこの後、大正6年の萩原朔太郎の『月に吠える』から和歌も引用してはります。教養のない私にはちょっと付いて行けませんでしたが、是非リンク先でお読みください。

そしてトランプの発言、ロシアの領海領空侵犯、「中国」の侵犯、日本国内のスパイの話、北朝鮮の話も出て来ます。
我が国の自衛隊が戦闘機の空中給油を続けながら航続距離を伸ばし、北朝鮮の核施設を空爆することは可能である。オスプレイも配備している。つまり「やる気さえあれば出来る」のだが、それはしない。

そして
自衛隊高官OBと何回か懇談したこともあるが、「クーデター」の可能性を持ち出してみても、彼らの口からクーデターの企みを聞くことはただの一度も無かった。

うーむ。三島由紀夫はあの日、クーデターを呼びかけていたんですよね(写真)。今の自衛隊ではなあ、、、。あ、別に誰を批判してるわけでもありませんが。そして宮崎さんの考察はもっともっと深いです。話はまた聖武天皇時代にさかのぼり、仏教全盛時代、唐かぶれ全盛時代の話です。
称徳天皇は吉備真備を軍師として大宰府から呼び戻し、その唐かぶれのハイカラ藤原仲麻呂を退治した。仏教の蔓延と唐かぶれの政治は終焉を告げたと思われたが、淡海三船(皇族学者)らは歴代天皇の名前をすべて漢字でおくりなした。カムヤマトイワレビコは神武天皇に、ハツクニシラシシミマキノスメラミコトは崇神天皇とおくりなされた。日本独自の「何か」が、この時に失われた。
ははあ、この頃既に、失われてたんか、、、と。「しかし日本文化の精髄にある和歌が残り、発展した。」とつないではります。最後に、
こう考えてくると、戦後80年の「失われた日本」も過去のパターンの繰り返しに過ぎないのかも知れない。
現代日本がアメリカの精神的植民地から独立を回復するまでに、まだかかりそうである。
と結んではります。うーむ。まだまだかかるんや。「失われた日本」は歴史の繰り返しなんや、というわけですね。困ったもんですね。今を生きる私らが、何とかしたいもんです。私は「日本会議」にも所属していますが、とても立派な大きな組織です。
せやけど、それがどないしてん?とふと思いました。「憲法改正」運動は、「年中行事」とちゃうんや。一昨年も去年も、今年も実現せえへんかったら、それはその運動の作戦自体が間違うてるということやんか、みたいな論議にはならへんようですね。
上で書いた、北朝鮮に自衛隊を送り込む話をせなあかん、ということなんやと思いますけどね。そんな話を、「家族会」やら「救う会」の人たちの方から言える話ではありませんが、キチガイが刃物を持って脅してる以上、こっちも刃物以上の物を持って取り戻しに行くしかないのは、もう理屈抜きでわからんとあきませんね。
そうでないといよいよ日本はアメリカにも「中国」にも、北朝鮮にも、あ、ロシアにも、ええようにやられて、いずれは滅び去るだけなんやと、今の今、私ら日本国民は肝に銘じることにしましょう。
人気ブログランキング
↑ やる気さえあれば、拉致被害者も取り返せるんやと思う人はポチっとお願いします。
コメント
(ChatGPT)記事に引用されているのは以下の二つの詩句です:
①「その菊はえ、その菊はいたみしたたる(中略)。菊は病み、えたる菊はいたみたる」
②「桜の木の下に立ちてみたれども わがこころはつめたくして、花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。いとほしや」
■解説
①「その菊はえ、その菊はいたみしたたる…」
これは、朔太郎が象徴詩的に「菊(=皇室)」の衰微を表現していると宮崎正弘氏は読み取っています。
『月に吠える』の中の詩「菊の花」に類する文体であり、病んだ菊を描写することで、日本の伝統や国家そのものの崩壊や退廃を象徴していると解釈されています。
②「桜の木の下に立ちてみたれども…」
こちらも同様に、『月に吠える』に収録された詩の一節です。
日本的美の象徴である桜を前にしても感動できない、むしろ涙を流すという心情の描写は、感性の喪失や文化的な疎外感を表しており、宮崎氏はこれを「日本精神の衰退」と重ねています。
これらの詩はいずれも口語自由詩であって短歌(和歌)ではありません。しかし、
・五七調のリズム
・花(桜・菊)を通じた象徴的な情緒の表現
・主観的な感情の吐露
といった特徴は、和歌の伝統的な美意識と重なる部分があります。したがって宮崎氏が詩を「詠んだ」と表現しているのは、厳密な形式ではなく、文体や情緒のスタイルに着目してのことと考えられます。
■結論
萩原朔太郎の『月に吠える』は形式上は和歌ではなく自由詩集ですが、引用された詩句の情緒性や象徴性が和歌的であることから、宮崎正弘氏はそれをあえて「詠んだ」と表現し、和歌的な文脈に置いて紹介したものと思われます。
(すけきよ)「その菊はえ、その菊はいたみしたたる(中略)。菊は病み、えたる菊はいたみたる」の全文はわかりますか?
(ChatGPT)はい、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に収録されている詩「すえたる菊」の全文は以下の通りです:([onibi.cocolog-nifty.com][1])
すえたる菊
その菊は醋(す)え、
その菊はいたみしたたる、
あはれあれ霜つきはじめ、
わがぷらちなの手はしなへ、
するどく指をとがらして、
菊をつまむとねがふより、
その菊をばつむことなかれとて、
かがやく天の一方に、
菊は病み、
饐(す)えたる菊はいたみたる。([onibi.cocolog-nifty.com][1], [Yahoo!知恵袋][2], [aozora.karashi.biz][3], [nextftp.com][4], [aozorashoin.com][5])
この詩は、朔太郎の詩集『月に吠える』に収録されており、青空書院などで全文を読むことができます。([aozorashoin.com][5])
詩中の「醋え」は「すえ」と読み、食べ物が酸っぱくなる、つまり腐敗することを意味します。「ぷらちなの手」は「プラチナの手」、すなわち白く冷たい手を指し、朔太郎特有の象徴的な表現です。([onibi.cocolog-nifty.com][1])
この詩では、朽ちていく菊の花を通じて、朔太郎が感じた日本の伝統や精神の衰退を象徴的に描いていると解釈されています。宮崎正弘氏がこの詩を引用し、「皇室の御紋章が病んでいるとは日本の歴史が病んでいるということである」と述べたのも、こうした象徴性に基づいています。
詩の全文や詳細な解釈については、青空書院の該当ページをご参照ください。([aozorashoin.com][5])
[1]: https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2018/10/post-28aa.html?utm_source=chatgpt.com “萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 すえたる菊: Blog鬼火~日々の迷走”
[2]: https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1434823454?utm_source=chatgpt.com “萩原朔太郎すえたる菊 – すえたる菊その菊は醋え、その菊はいたみした… – Yahoo!知恵袋”
[3]: https://aozora.karashi.biz/ha/hagiwara/tsukinihoeru.html?utm_source=chatgpt.com “詩集〈月に吠える〉 全篇 萩原朔太郎”
[4]: https://www.nextftp.com/y_misa/saku/saku_t05.html?utm_source=chatgpt.com “萩原朔太郎-すえたる菊”
[5]: https://aozorashoin.com/title/859?utm_source=chatgpt.com “月に吠える(02 月に吠える) – 萩原朔太郎 | 青空書院”
すけきよさん、すごい!
何だ…その削除された詩は取り上げてないのか、と思ってたとこ。朔太郎に嵌った事ないけど、ビアズレーにムンク、ランボー、懐かしいな〜。思い出させて頂いて有難う御座います。余りに日本の政治が醜くて目を背けてたいんですよね。罵って怒りをぶつけて…とかもうアホらし過ぎ。口に出すだけで穢れる。気持ち悪い。
ムンクの絵は精神の病が為したので、でもランボーとかビアズレーは頽廃の美ですもんね。二十歳で夭折したレイモン・ラディゲとか。日本人にしか分からない風雅と世紀末の頽廃の美を思いながら日々を過ごすのもいいですね。ユーチューブで映画観たり、美しいロックに浸ってしまったりで、もう本が読めなくなってしまったんです。
ジャパンハンドラーの犬シンジロウ
農協解体に必死やな
顔なんか見たくもないのにテレビ出過ぎ
古古古米で2000円は高いやろ
いつもの年なら新米でも1500円である
古古古米なら1000円くらいにしないと
国民は家畜扱いか
選挙は当日に行くか前日に行くにしないとインチキあるかも
期日前投票て上手いことするためのものかも知れんで
(すけきよ)三島由紀夫が現代に蘇ったとして、今の日本の政治状況や世相および国際情勢を見て、我々国民に向けてどのようなメッセージを発信すると思いますか?
三島になったつもりで演説してください。
(ChatGPT)(※以下は三島由紀夫の文体や思想傾向を参考に創作したフィクションの演説です。実在の人物の発言ではありません。)
演説:三島由紀夫、令和の世に語る
諸君、
私は、五十余年前、国家と肉体と思想の合一を求め、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて最後の言葉を叫び、あの世へと旅立った。しかし、今ここに、再びこの国の大地を踏む機会を得た。魂が時を超え、令和の日本を見渡したとき、私は静かなる怒りと、深い悲しみと、そして、なお絶えることなき希望を抱いたのである。
日本よ、お前は一体何を守り、何を忘れ、何を目指しているのか。
戦後、日本は「平和」と「経済成長」の名のもとに、美徳を換金し、精神を棚上げし、憲法という名の金縛りに自ら縛られた。そして今、世界は再び嵐の時代に入っている。ウクライナ、ガザ、台湾海峡、そしてAIとグローバル資本主義の奔流が、国境も、人間の尊厳も、伝統も呑み込もうとしている。
かつて私は、「経済だけが繁栄し、精神が痩せ衰えていく国家」は砂上の楼閣だと警鐘を鳴らした。今、その楼閣の足元は、ますます崩れつつある。若者はスマートフォンに魂を吸い取られ、言葉は軽くなり、愛国心は「時代遅れ」と嘲笑されている。そして、政治は小手先のポピュリズムに堕し、リーダーシップを語る者は、リスクを恐れて沈黙する。
諸君、
「国」とは単なる行政機関ではない。「国」とは、我々の精神の母胎であり、過去と未来をつなぐ聖なる継承である。武士道、天皇、そして日本語という霊妙なる言語体系。これらは単なる文化財ではない。生きた魂であり、我々一人一人の血の中に流れる炎である。
憲法を改正せよ。戦後の屈辱の檻から脱せよ。
経済の奴隷をやめよ。人間の尊厳を取り戻せ。
伝統を取り戻せ。西洋模倣を超えよ。
そして、若者よ、命とは消費するものではなく、捧げるものであると知れ。
この混沌の時代に、我々は再び「美」と「勇気」と「責任」を取り戻さねばならない。国家のために死ぬことが無意味だという者がいる。だが私は言う、「国家のために生きること」すら忘れた民に、果たしてどんな未来があるのか。
諸君、私は信じる。まだ日本には希望があると。
その希望は、諸君一人一人の中に眠っている。
目を覚ませ、日本人よ。
我々は未だ、戦後を終えていないのだ。
三島由紀夫、令和七年、再誕の辞。
現代に翔んで来た三島由紀夫ですか。
AIさんに御願いがあります。三島由紀夫の美意識と美麗な文章をもっと研究して下さい(笑)
私は、でもあの人は年老いて醜くなって行く自分には耐えられなくて、死を昇華させる場を求めていたと思う。上に書いたレイモン・ラディゲに心酔しきっていたんですよ、あの方。今みたいに賢者に欠ける、指針を与える人の居ない日本を思うと居て欲しかったですね。
おばちゃん
この記事とはかけ離れた内容で申し訳ないですが 皆様に知って欲しくて
外国人による、無許可無断土地開発の闇
>https://youtu.be/DFUsdAgo8cM?t=1089
日本は此の儘では中国に乗っ取られます。
今の政権をどうにかしなければ。